巨大な地球のオブジェが、入口前の広場にそびえるナショナル・テニス・センターは、彼女にとって、郷愁を覚える“始まりの地”であるという。
大阪市から、父親の親族を頼り3歳の時に移り住んだニューヨーク州の町。その近くにあったのが、全米オープンテニス会場であり、同時に市民に開かれている世界最大のテニス施設だった。1歳半年長の姉とともに、父親のてほどきでラケットを振りボールを追ったのは、かろうじて物心がついた頃。
「会場のいたるところを走り回った」
それは23歳を迎えた彼女にとって、家族と過ごした時間の懐かしい記憶でもある。
そのような原体験に根差す縁のためだろうか。“プロテニスプレーヤー”大坂なおみはこの場所で、異なる意味合いの、だがいずれも印象的な涙を毎年のように流してきた。
2020年全米オープン決勝戦で勝利直後の大坂なおみ選手
初めて全米オープン本戦に出たのは、18歳の時。3回戦で、当時世界9位のマディソン・キーズ相手に最終セット5‐1とリードするも、無欲な挑戦者が勝利を意識した瞬間、それまでの試合の流れは反転した。衆人環視の中ミスを重ねる18歳は、ボールを追いながらコート上で涙をぬぐっていた。
その翌年。19歳になった大坂は、前年の悪夢を払しょくするかのように、初戦で当時6位のアンジェリック・ケルバーを圧倒し一気に大会の注目選手へと躍り出る。だが初戦の金星が、彼女の自身への期待値を引き上げすぎただろうか。3回戦で、予選突破者のカイア・カネピとフルセットの大接戦を演じながら、やはり彼女は、コート上で泣いていた。思うようなプレーができない己を責め、相手ではなく、自分自身に打ちのめされたかのような敗戦だった。
2020年全米オープンでプレーする大坂なおみ選手
そして大会の歴史にも刻まれる、あの2018年が訪れる。
それまで阻まれ続けた3回戦の壁を6-0,6-0という印象的なスコアで蹴破った彼女は、過去の自分と惜別したかのように頂点まで駆け上がる。その頂上決戦の舞台で大坂を待ち受けたのは、幼少期からあまりに無垢でゆえに残酷な憧れを向け続けてきた、セレナ・ウィリアムズ。試合中、主審に暴言を吐いたセレナがゲームペナルティを受け、それを不服とするファンのブーイングによりセンターコートが文字通り揺れるなか、ひとり静謐な空気をまとい続けた大坂は、文句なしの勝利を手にし、次の瞬間には、涙にくれた。セレナという女子テニス界の絶対的シンボルの、後継者としての資質。オンコートでの冷徹なまでの勝負師の本能。そして試合が終わった瞬間、魔法が解けたように現れる繊細な人間性。この大会で大坂なおみは、テニス選手以上の価値を付与され、世界に知られる存在となった。
大坂なおみ選手とセレナ・ウィリアムズ選手
昨年の大坂が、黒人への差別廃絶を訴えて、警官等の暴挙の犠牲となった黒人被害者の名を記したマスクを試合のたびにつけ、7つの勝利を……つまりはタイトルを手にしたのは、多くの人々の記憶にまだ新しい。
「テニスを越えた大きなメッセージのために戦う時、わたしは強くなれる」という大坂の言葉に、スポーツの舞台に政治を持ち込むべきではないと眉を顰める向きもあるだろう。ただ女子テニスの歴史、そして連綿とつらなる歴史の旗手である大坂の“アイドル”たちの系譜を見ても、彼女にとって、テニス以上の何かのために戦うことは、ごく自然な成り行きのはずだ。
黒人差別被害者の名前を入れたマスクを着用して会場入りする大坂選手
大坂がセレナと並んで尊敬するウィリアムズ姉妹の姉のビーナスは、ウィンブルドンの男女賞金同額実現を長く訴え、英国紙にコラムを寄稿。世論の同調も生んだこのコラムが、伝統を重んじるかの大会を動かす最後の一押しになったと言われている。
大坂の前に、「アジア人女性選手初のグランドスラム優勝」という大きな先鞭をつけた中国のリー・ナは、大坂がやはり憧れと敬意を向ける選手。リー・ナは、当時中国政府の管理下で戦うのが当然だった中国テニス界の常識を覆し、国からの支援を切る代わりに、自分でチームスタッフも出場大会も決める自由を得た。“単飛”と呼ばれたリー・ナのこの単独飛翔は、後進に多大なる影響を及ぼし、彼女が穿った穴からは今も続々とフォロワーが飛び立っている。
昨年の夏、全米オープンテニスの前哨戦であるウェスタン&サザンオープンの準決勝を大坂は、“ブラックライブズマター”の主張のためボイコットする他競技に賛同する形で、棄権すると発表した。この時は、大会や女子テニスツアーも大坂の決断を支援し試合順延という結果になったが、いずれにしても大坂は、自らが旗幟を鮮明にした理由を「これは私の順番だな」と感じたからだと言った。
2020年全米オープン オンコートインタビューを受ける大坂なおみ選手
「テニス界的にも、きっと何かアクションを起こしたいと思っているはず」
そう思い周囲を見渡した時、状況や環境的に、自分以上の適任者は居ないと彼女は気づいたのだろう。
あの時から1年経ち、ニューヨークに戻ってきた大坂は、今、純粋に「勝負を欲している」と言った。
ナショナル・テニス・センターは、10代後半から20代前半の過渡期を走る大坂に、毎年のように試練を与え、異なるラベルを貼り、成長を促してきた。
同時にこの地は、20年前のまだ何者でもなかったテニス少女が見た、世界へと広がるテニスの原風景でもある。
時代のオピニオンリーダーであることも、テニスや勝負事が純粋に大好きなアスリートであることもできる場所が、このナショナル・テニス・センターなのだろう。
今季最後のグランドスラムでは、家族から“なおち”の愛称で呼ばれてきたかつてのテニス少女が、コートを躍動するはずだ。